民主党神奈川県第12区総支部代表、前衆議院議員 中塚一宏 公式ホームページ

改革は国民の為に

プロフィール

中塚一宏ができるまで
history of Ikko Nakatsuka


京大工学部から衆議院議員へ・・・なぜ?

始めまして、中塚一宏です。私が政治に関わったきっかけをお話しします。
父は自営、母は友禅の糊付け加工をしていました。一歳下に妹がいます。

小学校6年生の時に父が亡くなり、母と妹の3人暮らしになりましたが、裕福ではないものの、貧乏でもない普通の家庭でした。 ただし、母にはずいぶん苦労をかけたと思います。子供の頃の夢は、動物が好きだったので獣医になること。飛行機のパイロットにもあこがれました。

高校卒業後、理科系なら食いっぱぐれも無いだろうと、一浪して京都大学工学部に入学、金属学を専攻しました。入学当初は、ロックバンドとボランティア、アルバイトに明け暮れる毎日でしたが、ボランティア活動を通して比叡山延暦寺・千日回峰行の大阿闍梨、叡南覚照師と出会いました。

これが私の人生を大きく変えることになります。叡南覚照師は天馬空を行くがごとき話っぷりで、多くの学生が師を慕って集まっていました。高僧でありながら若者には仏教の話は殆せず、日本はどうあるべきか、人間の幸せのために政治はどうあるべきかといったことばかりをお話になるのです。

叡南師は私の父親代わりになってくださり、私はお寺に居候しながら政治について真剣に考えるようになっていきます。「世のため人のため」とはどういうことなのかと。

京都の空に花火を打ち上げる!

比叡山の麓、赤山禅院に居候をした私は、そこで学生を募りボランティアサークルを創って会長を務めました。活動内容は多岐に渡りましたが、街おこし・社会貢献が主な内容。川を清掃し鯉の稚魚を放流したりしました。

この鯉は今ではすっかり育って街の風物詩となっています。また花火を見たことがない子供達のために、花火大会を企画し、資金集めから花火の作成や実際の点火に至るまで、全部自分たちで実行しました。だから私は打ち上げ花火の免許を持っています。今思えば随分厚かましく無鉄砲な活動でしたが、多くの方にご指導いただきお礼の言葉もありません。

父親代わりの大阿闍梨からは、「暖かいところに人が集い、人の集うところに笑顔が生まれる」と笑顔の大切さや、人との接し方、ものの考え方を教わりました。「繁栄」という言葉が大好きな方で、自分もそして自分に係わった人も皆繁栄するんだという、固い信念をお持ちでした。

日本の繁栄・世界の繁栄という視点から政治の大切さや若い世代のもつ未来への責任についてのお話を聞いているうちに、徒手空拳でしたが政治の世界に飛び込むことを決心し、大阿闍梨に自分の思いを打ち明けることになります。

未知の政界「飛び込んでから実践で」

政治の道に進むといっても、正直いってどうすればいいか分かりませんでした。二世でもないのになれるわけがないから諦めろとか、まずは官僚になったらと言われたこともあります。

松下政経塾へはいるとか、海外でさらに勉強するといった選択肢もありましたが、ある人から議員秘書にならないかという話をいただきました。自分自身も現実の政治の世界に飛び込み実践で身につけた方が良いと考えこのお話を受けることにし、愛知県選出の丹羽兵助元労働大臣のもとでお世話になることになりました。父親代わりの大闍梨からは「とりあえず東京へ行って、役所の入口とか憶えておけ」と言われました。

母には決めてから話をしたのですが、何も言わずにうなずいただけでした。それまでもあれをしろ、これをしろと言われたことはありません。「どんなことでもいいから日本一になりなさい」と子供の頃から聞かされていましたが、さすがに政治家を目指すと聞いて驚いたことと思います。
平成2年3月末、オンボロ車にスーツ3着とふとん、つくえがわりのコタツ、そしてパソコンを積み込み、一路東京を目指しました。世田谷区の六畳一間の風呂無しトイレ共同のアパートに居を定め、スタートを切りました。


無我夢中”使い走り”も楽しい日々

さて、私は丹羽代議士の私設秘書として政治のスタートを切ったわけですが、丹羽兵助先生は当選12回79歳、国土庁長官、総務長官、労働大臣を務めた方で、自民党河本派(旧三木派、現高村派)の副会長をされていました。

大変腰が低く、「おじぎの丹羽兵」と言われるほど、深々と頭を下げる方でした。また自民党農水族のドンであり、米価・麦価等の決定に大きな影響を持っておりました。 初めてもらった給料は、白封筒に15万円。学生の頃、家庭教師をしていた時にはもっと稼いでいたので唖然としました。最近公設秘書給与のピンハネがよく問題になりますが、その背景には公設と私設の給与格差があるように思います。

父親代わりの大阿闍梨からは、「東京へ行ったら小沢一郎氏に挨拶をしておくように」と紹介してもらっていました。何分丹羽代議士は高齢なので、長く指導してもらえる人をと、考えていただいたのです。これが半年後、大きく影響してくることになります。東京は右も左も分からないし、一人暮らしをしたのも初めてという私は、秘書というより「使い走り」で、先輩秘書にあそこへ行け、国会見学を案内しろ、と言われるまま無我夢中に、でも楽しい日々を過ごしました。10月21日を迎えるまでは。

議員秘書として波瀾万丈のかけ出し

丹羽兵助先生(当時79歳)の秘書となり、朝はお迎えにいって朝食をつくり、ご飯が炊けるまでの間にワイシャツを着せ、ネクタイをしめてあげ、また選挙区へ戻っている間は洗濯をしたりと、身の回りのお世話から仕事を始めました。

ようやく丹羽先生の名古屋弁にも馴れてきた、平成2年10月21日のこと。この日は日曜日で私は自分の部屋でくつろいでおりました。何の気なしにつけたテレビに臨時ニュースのテロップが映ります。「丹羽兵助代議士、暴漢に襲われる」 私は自分の目を疑いました。対外のことには驚かない私ですが、丹羽先生が自衛隊の駐屯地でのイベントの際、暴漢に首を刺され、危篤だというのです。

愛知県春日井市の地元事務所へ直行、丹羽先生は危篤で集中治療室に入りっぱなしです。多くの支持者の皆さんや海部俊樹総理(当時)がお見舞いに来てくださいました。しかしながら懸命の治療にもかかわらず、残念ながら11月2日にかえらぬ人となります。あの小柄な丹羽先生が出血多量で亡くなった、さぞや痛かったのだろうと思うと今も胸が痛みます。以後毎年、命日には先生のご自宅に伺い遺影に手を合させていただいています。 さて議員が死亡すれば秘書は失業です。

葬儀の準備などに追われ慌ただしい日々を過ごす中で自分の身の振り方も考えねばならなくなりました。

「オヤジさんを弔い「仏(ほとけ)の中條」に拾われる」

丹羽兵助先生は当時勤続33年の議員でしたので、葬儀は自民党が党葬として行うことになりました。私は、打ち合わせと準備のために自民党本部に何度も足を運ぶことになります。そしてある日、打ち合わせを終えて党本部のエレベーターを降りた瞬間に、小沢一郎自民党幹事長の第一秘書、中條武彦さんにばったりとお会いしました。

中條さんは小沢一郎氏の当選以来の秘書として自民党の秘書協議会の会長や田中派の秘書会長もお努めになられた方で、平成5年末に亡くなりましたが、「仏(ほとけ)の中條」と皆から慕われた方でした。 中條さんは、「君は丹羽兵助さんの秘書だったね。

いろいろたいへんだろうと思うけれども、オヤジさんの最後を立派に終えるように。落ち着いたら遊びに来なさい」と暖かく声をかけてくださいました。
半年前に、父親代わりの大阿闍梨から言われて、小沢一郎氏に挨拶に行った際に、中條さんも交えていろいろなお話をさせていただいたことを憶えていてくださったのです。

小沢一郎事務所にお伺いしましたら、中條さんが「君の今後の身の振り方だけど、本当は小沢一郎の秘書になって欲しいのだけれど、ウチは給料が安いから(?!)。小沢の系列の議員に、星野行男さんという人がいて、今第一秘書をさがしている。何でも教えてあげるから、引き受けてくれないか」と、とてもありがたいお話をしてくださったのです。もちろん小沢氏とも相談の上だとのことでした。

夢あって休みなし 弱冠26歳の公設第1秘書

丹羽代議士亡き後、私にとってはこんなにありがたい話しはありませんでしたが政策秘書制度がなかった当時、第一秘書といえば政策から始まり、選挙の実務、資金集めに至るまで何から何までこなさなければいけない立場です。

弱冠25歳であった私にはいかにも荷が重いと思いましたが、小沢一郎先生事務所の全面的バックアップがあるならと、無謀にもお引き受けすることにしました。星野行男代議士は、旧新潟三区選出。幼いころから苦学力行をされた方で、弁護士・小千谷市長を経験し、田中角栄代議士の後継者と言われた方です。

選挙の神様といわれた田中角栄さんの選挙を実際にこの目で見てみたいとの思いもありました。しばらくの間は私設秘書として、その後二十六歳という異例の若さで公設第一秘書になりました。
給料は倍になりましたが、仕事は三倍になりました。旧新潟三区は日本有数の広さの激戦区で、地元事務所は三カ所、地元秘書は九人いましたが、代議士の給料というのは文書通信費もあわせて月額百七十万円ほど。家賃・人件費をどうやってまかなうかで頭を痛めました。もっともこの悩みは今も変わりませんが。

丹羽代議士は河本派(現高村派)、星野代議士は竹下派(現橋本派)。派閥を変わることになり、選挙のノウハウの違いを思い知らされる出来事が起こります。

選挙の真髄 田中派秘書軍団から学ぶ

経世会(竹下派)秘書会は、かっての田中派秘書軍団の流れをくみ、当時もやはり最強を誇っておりました。海部内閣の総辞職後、竹下派は宮沢氏を推すことになりますが、総裁選挙の応援態勢が半端ではありませんでした。

党員名簿を職域支部と地域支部に細分化し、徹底的な戸別訪問でつぶしながら情勢を分析するのですが、ノウハウが他派閥とは全然違うことを実感しました。加えて二人一組で東京の党員を戸別訪問。私も実際に行いました。

また数が多いということは本当に政治の世界では貴重なことで、いろいろな専門分野をもつ議員同士がお互いに協力するので、処理できない陳情はありませんでした。 加えて新潟三区、田中角栄氏の選挙についてもかいま見ることができました。
田中角栄氏は毀誉褒貶相半ばする政治家ですが、選挙については「戸別訪問3万軒、辻説法1万回。それをやって初めて当選の可能性が生まれる」というのが口癖だったそうです。選挙の真髄と思います。またどんな人とも分け隔てなく話しをされる方だったそうで、そうあらねばならないと私も思います。

とにかく他の議員の先輩秘書に指導してもらいながら、夢中でいろいろな仕事をこなし、多くのことを学んでいきました。そうこうしている内に、竹下派には大スキャンダルが起こります。

日本の政治 政権交代の必要性を痛感

今でいうところの政官業癒着の手法を竹下派の秘書時代によく見聞きしました。

よく事件として起こるのは補助金のピンハネによる贈収賄。しかしもっと巧妙なのは、税制を使うもので、業界全体を優遇することにより、合法的に(?)政治資金をつくってゆくというやり方です。

自民党の税制調査会はまさにこれです。もちろん業界団体のボス的な政治家でなければできることではありませんが、国民の皆さんには見えないところで巧妙に政治資金をつくり業界への影響力を確保してゆくというやり方がまさにこれで、私はこういう手法を実際に見聞きしているので、政権交代がなければ日本の政治は変わらないと確信をしているのです。

冷戦構造の崩壊と湾岸戦争の勃発、またバブル経済の崩壊と共に低迷をする日本経済。経済のグローバル化、高度情報化、少子高齢化。内外情勢が激変する中にあって、この国の制度仕組みを時代にあわせて変えなければならないにも関わらず、本来その役目をになうはずの政治が全然機能していない。
だからこそ政治家が政策本位の議論ができるように、政党本位の選挙ができるようにと小選挙区制度の導入を目指す勢力が台頭してきます。

そこに起こったのが金丸信氏の東京佐川急便スキャンダルでした。

権力と闘争の狭間で  佐川急便事件

田中角栄氏の名言というのがあって「自民党の派閥は5つしかない。それは中選挙区の定数が5人区までしかないから。中選挙区制度のもと国会で過半数を占めようとすると、自民党として複数人の候補者を派閥が立てて争うことになります。

同じ党の人間なのですから政策は殆ど同じ。選挙戦はサービス合戦になりがちでした。党としてカネを集めるのではなく派閥のボスが自分の子分を養うために、カネを集める。政策能力もさることながら、カネ集めの上手いことが出世する条件になっているのです。

政治とカネを巡るスキャンダルは今日でも後を絶つことがありませんが、金丸事件も正にそういう中で起こりました。 これらの問題点を解決し、政党本意・政策本意の選挙を行おうとするのが小選挙区制度の導入です。経世会(竹下派)でも小沢一郎氏を中心とするグループはこの急先鋒でした。

しかしながら金丸事件を巡る派閥内の対応の違い、若くして抜粋された小沢氏へのやっかみ、経世会の次期会長の座を巡っての権力闘争も加わって、経世会は分裂します。私は当時27歳。政治はもちろん政策が中心でなければいけませんが、権力闘争の凄まじさも目の当たりにすることができました。

解散そして自民党離党 波乱の衆議院総選挙

金丸信氏の東京佐川急便事件による経世会(竹下派)会長辞職を受けて、後継会長レースは熾烈を極めました。

小沢一郎氏を中心とするグループと反小沢氏のグループは別々のホテルに立てこもり(?)、連日私も作戦会議に参加しました。が結局決裂。羽田孜氏をリーダーに「改革フォーラム21」という新政策集団を結成することになります。

そして国会では宮沢内閣のもと、衆議院に小選挙区制を導入しようとする政治改革関連法案が審議されていました。宮沢総理はテレビ番組に出演、「今国会で成立させる」と明言したにもかかわらず、結局審議未了で廃案に。国民に対する政治家の約束は極めて重い。自民党として法案を成立させられないなら、ケジメをつけなければなりません。

政治改革に最も熱心であった羽田・小沢派は、内閣不信任案に賛成票を投じて事態は解散総選挙へと進みます。今からちょうど10年前のことです。自民党を離党して新生党を結党することになりました。私も星野行男氏の第一秘書として、選挙を仕切ることになります。

しかしながら支持基盤を全く違えて選挙をするわけですから、それまでの蓄積が雲散霧消し、目のくらむような思いがしたのを覚えています。
加えて大ハプニングが起こりました。

驚天動地の選挙戦。ハプニングにドラマに

平成5年、結党したての新生党で解散総選挙にのぞむことになりますが、選挙公示2週間前に大ハプニングが起こりました。

なんと田中眞紀子さんの突然の立候補表明です。新潟3区は言わずと知れた田中角栄氏の地盤。星野行男氏は田中角栄氏の後継者を標榜していたわけですから、これはとてつもない衝撃でした。とはいっても選挙は待ってはくれません。私も荷物をまとめて新潟県長岡市の選挙事務所へと向かいました。

新潟での選挙戦は全くの初めての経験でしたが、特に農村部では朝が早かった。朝、農作業へいく前の人をつかまえて電話連絡等を行う訳ですが、そうすると連日3時起きになります。選挙戦終盤ではあまりにも眠くてお話をしながら眠ってしまいそうになったり、相手の目が4つに見えたりしました。

よく田中眞紀子さんは父角栄氏の後援会を引き継いだかのように報道されますが、実際は異なります。角栄氏の後援会 越山会はどちらかというと星野氏が取り込んだ部分の方が多かった。真紀子さんはそうではない票、つまり新潟3区の中でも都市部の票を多く獲得していました。ともあれ政治改革を焦点に行われた総選挙ですから、星野陣営は地道に政策を訴えてゆく戦法をとります。

改革派当選!初めて自分で仕切った選挙戦

平成5年の衆議院総選挙は、政治改革を争点に改革派が守旧派に対して戦いを挑んだ選挙でした。新生党以外にも日本新党やさきがけなど、様々な政党が改革を訴え、選挙を戦いました。

新潟3区では突如田中眞紀子氏が立候補するというハプニングがあったものの、星野行男氏も2位で当選しました。自民党を離党することによって、組織団体の支援は受けられないので、大変に不安に思ったものですが、結局まじめに政策を訴えることによってそれまで以上の支持を集めることができました。

私自身自分が中心となって行ったはじめての選挙戦で、貴重な経験ができたことは、今も私の財産です。

もっとも時の流れは皮肉なもので、私が秘書としてお仕えした星野行男氏はその後落選して自民党に復党、対して当時ライバルだった田中眞紀子さんは現在、民主党・無所属クラブで同じ会派。政治の世界の転変の激しさを物語ってもいます。

さて選挙が終われば、挨拶回りも早々に東京へと戻って中央政界の動きに目を光らせなければなりません。次は政権の枠組みです。自民党は単独過半数を割り込み、非自民連立政権への気運が盛り上がっていきます。

ただし現実の問題となると様々な利害が錯綜し合って話はまとまらず、組閣は夏へともつれ込むことになります。

非自民連立政権樹立 選挙から政策へ

平成5年8月に私の所属する新生党も加わって、細川連立政権が発足しました。非自民の連立政権です。久方ぶりの政権交代で、国民の期待は大きく高まりました。

連立政権の構成は、社会党や民社党のような既成政党もあれば、新生党や日本新党、さきがけのような新党もあり、特に新党では事務局がどうしても貧弱になりますから、各議員の秘書で分担をすることになります。私は政策の担当になり、特に郵政・情報通信関連分野を担うことになります。

自民党は立派な事務局がありますし、加えて実質的には霞ヶ関の官僚が政策立案を行っています。政権交代によってそれまでと勝手の違う官僚の戸惑いもありましたし、暗中模索状態の政治主導の確立など大変な課題がありました。

また最大の政治課題は政治改革、小選挙区制の導入でした。中選挙区制度で過半数を占めようとする政党は、複数名の候補者を擁立することになります。結果、政策論議ではなくサービス合戦が選挙運動の主体となってしまい、一方与党になる気のない政党は一人だけなら確実に当選させることができますから万年野党化してしまう。この閉塞状況を打破するために小選挙区制度が必要でした。

小選挙区制度による二大政党政治が必ずしも最良とは思いませんが、でも政権交代を起こすためには、ぜひともやるべし。これが細川内閣の主張でした。

前途多難な連立政権 総理の突然の辞意表明

細川内閣の最大の政治課題であった小選挙区制度は、比例代表並立制として成立することになります。これにより日本の政治は政党政治へとステップを踏み出します。

さて政治改革の次には経済・財政改革が課題でした。
また隠れた課題としては悪化していた北東アジア情勢、対北朝鮮問題がありました。これらの課題に着手しようとした矢先、細川総理の佐川急便関連の資金疑惑が持ち上がります。細川総理の個人の問題であったとはいえ、唐突な辞任表明にとてもおどろきました。
と、同時にたいへん残念でした。

自民党は与党としての予算配分権限等で締め付けや利益誘導を行い選挙をする政党。現在でも大臣が選挙応援で予算陳情を受け付けるなどということを、堂々とやっています。自民党の力を削ぐためには、最低でも三年ぐらいは野党暮らしをしてもらわねばならない、私はそう考え進言もしていたからです。

政権への執着心、これはどの政党より自民党が強い。今の民主党についても言えることですが、もっと執着心を持たねばなりません。細川内閣は、新生党や新党さきがけなど、自民党からの離党組があって初めて成立した政権。選挙を通じて政権交代が起こったわけではありません。

そのもろさがこの後露呈することになります。

新党から新党へ 政界再編は止まることなし

先日、小沢一郎氏と話をしたら今までの政治家人生の中で最も悔やんでいることは「細川非自民連立政権が余りにも短命に終わったこと」と述懐していました。細川連立政権が崩壊したあと社会党は連立政権離脱を表明し、後継の羽田内閣は少数与党で出発することになります。

そして今度は自民党・社会党・さきがけの連立政権がスタートすることになるのです。「まさか社会党と自民党が手を組むとは思っていなかった。55年体制のなれ合いの深さを見誤った」これも小沢一郎氏の弁。自民党の政権復帰にかける執念の深さ、理念や政策より政権復帰を最優先とする何でもありの恐ろしさ、実感しました。

この間、私が秘書として使えていた星野行男氏は、羽田内閣の運輸政務次官に任命されます。たった一ヶ月余りの短命次官でしたが、私も運輸省の秘書室に机をもらって仕事をしました。

羽田内閣が総辞職して村山内閣が発足、非自民連合は合併して一つの政党になることを目指します。衆議院の選挙制度が小選挙区制になったこともあり、平成6年末に向けて、二大政党政治を目指す動きが加速しました。新党の結成です。

加えて小選挙区による選挙に向けての準備も開始することになりました。

野党暮らしスタート 離合集散は世の習い?

細川連立政権は、一世の傑物だったと思います。長く続いた自民党政権にピリオドを打ったことは特筆すべきことです。政治改革に続いて、経済問題、税財政問題に取り組んでゆくはずでした。連立政権が崩壊してしまった虚脱感は、当時の誰にもありました。

しかしながら、政治は国家国民のためのもの。
数々の改革を成し遂げて良い政治を行うためには、その基盤づくりが重要です。非自民連立政権の枠組みを新しい政党へと深化させる試みがスタートします。新党ブームで数多くの新党ができましたが、それらを統一して新・新党をつくる模索がスタートします。

新党設立準備委員会ができて綱領や基本政策をつくるための話し合いがもたれましたが、その準備委員会のメンバーが相次いで自民党へと復党。人間誰しも自分のことが可愛いのは分かりますが、ポスト目当てで自民党を離党して細川連立に加わった人が、野党転落と同時に自民党へ復党する様は、見ていてたいへんに浅ましく感じました。

それを小沢一郎氏が「豪腕だから」とか「人徳がないから」などと、人のせいにしているのを見ると、それが現実の政治だとしても、未だに納得できません。新・新党の前途多難を感じました。

小選挙区制度と日本の政治文化

新進党の結党が決まり、名称が決まったのも今と同じような歳の瀬も押し詰まった慌ただしい頃でした。もう10年も前のことになります。パシフィコ横浜で結党大会、新しい政党の出発を印象づけるセレモニーだったと思います。

小選挙区制度での選挙も3回行われ、国民の皆さんの意識も大きく変わりつつあると思います。そして議員の意識も大きく変わりつつあります。小選挙区制は1人しか当選しない制度。自分の1票行使も真剣でなければなりません。また民主主義・国会の原則は多数決です。2大政党政治下では、なあなあ・まあまあが通用しなくなってゆきます。すべてアンダーグラウンドで話し合いをつけておいて格好付けのために反対するようなことができなくなるのです。

そういった意味で、これからの政治は合意形成過程の説明責任がこれまで以上に求められるようになると思います。「寄らしむべし、知らしむべし」では国民が納得しない。国会活動とは次の総選挙での重要な判断基準になるはずだからです。「分かりやすい政治」が何よりも求められます。

内外ともに難問山積のまま、今年も暮れようとしています。本当にお世話になりました。来年もよろしくお願い申し上げます。

政治を国民の手に取り戻す 改革は道半ば

多くの皆さんは、「政治なんて」というふうにお考えのことと思います。
確かに今の政治は国民から遊離してしまっている。年金を始めとする景気の問題は放ったらかしにしたまま、政治家は自分たちのことしか考えていない、これが政治とカネの問題に皆さんの怒りが集中する原因と思います。確かにろくな政治家がいないのも事実です。

政治家はバカにされて仕方ありませんが、でも政治はバカにしないでいただきたい、そう思うのです。政治は私たちの身の回りのこと、生活そのものだからです。その気になれば政治に変えられないことなど何一つありません。政治とは人間の可能性を信じるということに他ならないのです。

政党も政治家も「良い政治」をするためにあります。「良い政治」とは国家国民のための政治。政治家が、自分たち自身や官僚の方ではなく、国民へと目を向き変えた時に、あっという間に日本は変わることでしょう。それこそが本来の政治の姿です。

15年前に徒手空拳で政治の世界に飛び込みました。いろんなことがありましたが、多くの皆さんのご支援のおかげで、世のため人のために働かせていただけることに心から感謝しています。

そして今・・・

私が政治の世界に飛び込んでからの13年は、日本の政治がまさに激動を続けた時代でした。冷戦構造が崩壊し世界は新秩序を模索する中、湾岸戦争が起こりました。バブル経済とその崩壊も重なりましたが、それは豊かさが実感できない経済大国の力が持て余された結果だと思います。

内政も外交の混迷に対して、政治・行政は右往左往するばかりで自分たちのことしか考えていないこと分かったのが、東京佐川急便事件です。 時代にあわなくなった制度仕組みを変えるのは、本来政治の役割です。

政治家が国民の代表として、普通の人が何に喜び、何に涙しているのか知った上で、自分の言葉で語り、法律を作って国会で議論しなければなりません。政治家が原点に立ち返るとは、国民の手に政治を取り戻すことです。

政治改革のため宮沢内閣不信任案に賛成票を投じ、細川連立政権をつくって、ちょうど10年たちました。 選挙制度は変わりました。 皆さんの意識もどんどん変わってきています。

しかし改革はまだ道半ばです。規制によってがんじがらめになった社会から、一人一人の持っている能力が最大限発揮される社会へ。政治家や役人に取り入らなくても、頑張った人がきちんと報われる社会へ。

これからも頑張ります。



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